御流罪

 

 承元元年、善信房(親鸞聖人三五歳)は越後の国へ御流罪の御身となられました。住蓮房、安楽房の両僧が官女、松虫・鈴虫を尼にした科を事縁として、五ヵ年の御流罪と決定したのです。聖人は御上から僧位をとりあげられ、藤井善信という俗人の名で郡代、萩原年景公の手に渡されました。
 聖人は、親不知・子不知の難所を越えて居多ヶ浜へ上陸され、都を発って十四日目の晩に国府へご到着されたのです。そして年景公の心ばかりの情けで粗末な小屋へとお入りになりました。
 聖人はこの苦難をものともせず、他力本願のみ教えを広めることに昼夜不断の努力をされました。その甲斐あって村人たちは日増しに聖人のまわりに集い、念仏の声はいよいよ盛んになりました。これを聖人はひとえに恩師法然上人の教えを受けた賜物であると喜ばれました。
 萩原年景公も後に上人の御徳を慕い、恐れ多しとあって国分寺のほとりに草庵を建て、そこへお移し申し上げました。そして上人三九歳の十一月、この御流罪ご赦免の令が岡崎中納言範光卿を以ってくだり、勅使は十二月国府の配所へ早馬を飛ばせたのでした。久方ぶりに国府には嬉しい春が参りました。