建暦元年、流罪勅免の使いが越後国府に来ると伝え聞いた親鸞聖人は、草庵を後にして国府に向かいました。しかし途中雪に見舞われ、柿崎につくころにはすっかり日も暮れてしまいました。
そこで聖人はこの地の扇屋の門をたたき一夜の宿を請うことにしました。しかし扇屋夫婦は邪険に断り「軒下なら勝手にするがいい。」と言って戸を閉めてしまいました。そこで聖人は厚く礼をのべられ、念仏を唱えながら夜の明けるのをお待ちになりました。
流石に無情の夫婦も、戸の隙間より漏れてくる念仏の声を聞いて尊さが身にしみて自らの非礼を詫び、聖人を家の中へお招きになりました。ここで聖人は御仏の教えをお説きになると、夫婦はたちまち念仏の行者となりました。
非常にお喜びになった聖人は扇屋に「南無不可思議光如来」の九字の名号を与え。翌朝「柿崎にしぶしぶ宿をとりけるに、主の心熟柿(うれし)なりけり」と地名の柿崎を折り込んだ歌を詠まれました。それに対し扇屋の主人も「かけ通る法師に宿を貸しければ書き(柿)呉れたりや九字の名号」と返しました。
扇屋の妻は聖人の発ったあと、名残を惜しみ聖人のお跡を慕っていきました。そして、既に川を渡られた聖人にお形見をお願いしますと聖人は向こう岸からこちらに向かって空中に六字の名号を書かれました。すると扇屋の妻の手元の紙に「南無阿弥陀仏」の六字が浮かび上がったのです。扇屋の妻は歓喜してこれを押し頂き、川越しに聖人とお別れいたしました。